ハートネットTV WEB連動企画゛チエノバ”「座間事件とSNS」

Eテレ12/7放送の番組、『ハートネットTV WEB連動企画゛チエノバ”「座間事件とSNS」』を見た。例の座間大量殺人事件とSNSとの関係や使い方についての番組だった。
私もTwitterを良く使っているので、この問題はとても関心があったけど、私の答えは既に出ていて、「SNSで知り合った人に、リアルで会わない」が唯一の解決法なんじゃないかと思っている。そう、なんでみんなリアルで会っちゃうのかね? 出会い系みたいな使い方、するなよと言いたい。それも、知り合った当日にホイホイ男の家にあがるなんて、警戒心も何も無いよね。被害に遭った人たちを悪く言うつもりは無いけど、死にたいから、どうなっても良かったのかな。

でも、荻上チキらが言っていた、愚痴れる場が必要、というのは、とても賛同する。番組で紹介された人の意見の中に、「ネットの世界で助けを求める、それがいけないことなの? それを規制されたら、次はどこへ助けを求めたらいいの?」というものがあった。まったくその通りだと思う。
Twitter社などのSNSを運営する会社が集まって、規制を検討しているらしいけど、「死にたい」と投稿したら削除されるような場が、本当に健全なのかな。自由じゃないよ、そんなの。
ただ、本当に「死にたい」と思っている特に若い女性は、それが「誰かに気持ちを分かってもらいたい、すがりたい、助けて欲しい」という気持ちを言い換えただけだったりする。私も昔はそうだったから。だから、SNSで知り合って、簡単に会う約束を取り付けて、会ってしまう子を、どうやって止められるんだろうか、っていうことは、ちょっと私には分からない。

私が以前やっていたTwitterのアカウントでは、病気であることを自分も分かっていない(病識が無い)状態だったので、特に東日本大震災の直後、物凄く気分が荒れて落ち込んで、「死にたい」と何度もツイートしていたら、事情を知らないフォロワーさんが「大丈夫ですか? 救急車呼びますか?」等々、心配してくださったことがある。一般の人から見たら「死にたい」という発言は、凄く重いものなんだなぁ、と最近になって思った。当時は、他人が私の発言をどう思うかなんて、気にもしていなかった。ちょっと反省している。
そうは言っても、今のTwitterのアカウントでも、時々鬱になった時なんかは「死にたい」ってツイートしちゃうけどね。

荻上チキ氏が、Twitterの病みアカを作っていたと語っていて、かなり興味深かった。その中で、言葉、文字にしてアウトプットすることで、自分の気持ちを客観視して、整理できる、と語っていて、まったくその通りだなと思った。
特に私の場合は、それがブログで実現されている。些細なこともブログに書く。2週間に1度のメンクリの診察の前に、ざっと読み返して、主治医に伝えるべきこと、相談すべきことをまとめる。それが習慣になっている。また、認知機能障害により、記憶力が衰えているため、様々な事務手続きや、滅多に行かない通院(定期健診など)の時期を確認するためにも、ブログを活用している。
勿論SNSも活用している。mixiもやっているし、Twitterもやっている。Facebookもやっている。インスタグラムはスマホが無いので、アカウントだけ持ってて、気に入った人を登録して時々写真を見ている。

精神科医の松本氏が、「希望とは絶望を分かち合う事」という名言?を話されていて、なるほどなと思った。私たち精神病患者は、病気の告知という一種の絶望を共有している。だから、ブログ村やSNSなどで同じ病気の人に出会うと、それが生き甲斐になる人も出てくる。病気の事を理解しないリアルの友人よりも、顔も知らない同じ病気の他人のほうが、つらい気持ちを理解してくれると思うこともあるだろう。少なくとも私はそうだ。
支援センターでも、まったく同じ病気の人は残念ながら見かけたことが無いけど、統合失調症や躁鬱病の人と、薬の話や具合が悪くなった時の話などをすると、「あぁここでは偏見が無いんだ」とホッとする。だから、とても飽きっぽい私が、支援センターへ通うことを飽きないでいられるのだと思う。