心の傷を癒すということ(2)「僕たちの仕事」

『心の傷を癒すということ』第2回は、阪神淡路大震災直後の神戸が舞台になっていた。

被災直後、どこかのマスコミが安に「被災者として内側から記事を書いてもらえないか」みたいな感じで頼んでいたが、もう本当にこれは失礼だし、被災者のことも、医者のことも精神科医のことも、バカにしている発言で、むかっ腹が立った。
そもそも被災して、てんやわんやの状態なのに、よくそんな人に、悠長に「記事書いてくれ」なんて頼めるな、と思った。こういうのを見ると、マスコミって本当に何のために存在するのだろう?と思う。記事を書いて報道するのは、医者じゃなくてマスコミの仕事だろうに。
で、最初は安も断っていた。でも、「理由が沢山あるのは、無いのと一緒」という永野の言葉をつぶやいていたので、「これは怪しい」と思った。終盤、マスコミに記事を手渡していたので、やっぱりな、と思った。

避難所の体育館で、被災者を回っている時に、被災者から「精神科にかかってるなんて知れたら……」みたいな発言があって、あぁそうだなぁ、1995年といったら、まだまだ精神科・精神病院への偏見は強かったなぁと思った。
私が初めて精神科クリニックにかかったのが1994年頃なので、まぁおよそ同時期なんだけど、やっぱりその頃もまだ精神科への偏見は強かった。
のちにこの被災者の女性が安の診察室を訪れるのだが、そりゃまぁ想定内だよなぁ。絶対何かあると思ったもん。

大阪に避難した尾野真千子は、本当にいい演技をするなぁと思った。
このシーンでは、男女の恋愛というより、家族愛に焦点があたっていて、夫婦親子が離れて暮らすより、危険な所でも一緒に暮らしたい、という気持ちをうまく描いている。個人的には、離れて暮らしたほうが良いと思うが、某ゴーン氏なんかを見ると、家族と離れる、会えないというのは耐えがたい苦痛の人もいるようだ。

マスコミの人が、階段の踊り場で泣き崩れる男性の写真を撮っているシーンでは、思わず「うわぁ……」と声が出てしまった。酷すぎ。
いつも思うけど、マスコミって惨事を報道する時の配慮ってもんが無いのかな。写真は、一発で悲惨さが分かるけど、撮られた人の気持ちとか、考えたことがあるのかな。
知る自由・権利とか言うけど、写真を勝手に撮られて、心をえぐられた人のことはどうでもいいのか?

段ボールにペットボトルを乗せて、地震ごっこをやっていた男の子も、何かあるだろうと思っていたら、何かあって、ちょっとうるっときた。こういうストレスというか、悲しい思いをした子供は、その気持ちをどうやって片付けていくのだろう? 大人ですら難しいのに。

最後、「人の心の傷を癒すのは医者やない、医者に出来るのは回復しようとする人のそばに寄り添うことだけ」という安のセリフが、身にしみた。精神科医に頼り切りでは治らない、自分からアクションを起こして治る努力をしないと、症状は改善しない、ということなのだと思った。

今回も、精神科医療としての含蓄に富んだストーリーであると同時に、娯楽としてもとても楽しめて良かった。